​名塩千軒

​歴史

起源については諸説ありますが、文明7年(1475)本願寺蓮如が越前より名塩に来訪し、広教寺(現・教行寺)を開き、後に信長の越前一向一揆弾圧の期に越前より縁故をたより紙漉き工が移り住み技術を伝えたと考えられています。慶長年間の頃、東山弥右衛門という人物が名塩に産出する泥を紙に漉きこむ技を導入し、名塩紙の始祖とされています。その後も襖などに使用される間似合紙を中軸として様々な種類の紙が漉かれましたが、中でもその類をみない紙質により藩札および手形用紙としての需要によりこの谷合の村落に名塩千軒と呼ばれる繁栄がもたらされることとなりました。

 今から約400年前の慶長・元和(1596-1623)の頃に遡る話である。その頃名塩生まれの東山弥右衛門という若者が、ある年、木曽路に山夫として出稼ぎに来ていて仲間の一人から越前(福井県)で立派な紙ができ、それが大層利益をあげているという話を聞いた。弥右衛門は何時までも山夫をしていても仕方がない、なにか手に職をつけたいと思っていた矢先とて、善は急げと越前に向かった。それにはいろいろと困難もあったが、彼は人知れぬ希望を持っていた。いよいよ目的地にたどり着いて、紙漉き場に職を求めようとしたが何処も他国の者は雇わないといって寄せ付けてくれない。弥右衛門はわざわざ越前に来ながら紙の漉き方を覚えずに過ごせない、なんとか習う方法はないかと、あちこち訪ねまわったが「この部落に住み着き、土地の女を娶れば紙の製法を教えてもらえる。さもなければだめだ。」と口々にきかされるばかりであった。 

弥右衛門は考えた。それ以外に紙漉きを習う方法がないとすれば致し方ないと、折よく世話をするひとのあるのを幸い、ある紙漉き場の婿養子になり、やっと目的を達することができた。彼は自分が選んだ道であり、また一方気高い職業でもあるとして、命を打ち込んで習い、いつしか立派な漉き手となった。こうしている間に早くも数年経って、夫婦の間に子供も生まれた。しかし、ある日のこと弥右衛門の頭に故郷のことが浮かび、急に帰ってみたくなった。それ以来、彼は毎日故郷のことばかり思い出されて仕事が手に付かない。思い余った挙句、ある夜密かに、妻子を置き去りにして養家を逃げ出し故郷へと急いだ。 

かくて、ようやく懐かしの故郷名塩に辿り着いた弥右衛門は村人に温かく迎えられた。彼は木曽路に出稼ぎ中のことや、越前で紙漉きを覚えてきたことなどを話した。村人は大いに喜び、ぜひ紙の漉き方を教えてくれと、大勢の者が彼の家にやって来た。それで彼は越前風の漉き組をたてて親切に紙の漉き方を伝授した。弥右衛門はこうして村人に教える傍ら、自分でも更に美しい紙の作り方の工夫に余念がなかった。ある時、部落の中によそで見られない泥があることに気が付き、これを使ってなんとかできないものかと考えた。そして一種風変りな紙を作ることに成功した。 

その後この紙は日本国中に泥入り名塩和紙として知られ、もてはやされるに至る。かく功成し遂げた弥右衛門にも人知れぬ悲しい思い出が心の奥底に潜んでいた。それは養家に残してきた妻のことであった。また妻のほうでも彼を慕うのあまり、越前を後に、子供を連れてこの地に訪ねてきた。それを知った村人は、他国の者はたとえそれがだれの妻であろうと一切村に入れることはならぬと、いかに彼女が事情を訴えながら、嘆き悲しんで願うにもかかわらず遂に村はずれから追い返した。彼女は村人の無情な仕打ちを心から恨み、その場で狂い死にをしてしまった。名塩和紙の起こりには、こんな哀れな話がある。

​                                 参考文献:東山弥右衛門物語

[名塩紙の歴史]

1456(康正2)年

1475(文明7)年

1615-36

(慶長・元和・寛永年間)年 

1638(寛永15)年

1701(元禄14)年

1708(宝永 5)年

1711年(宝永8)年 

1712(正徳2)年

1748(寛延1)年

1777(安永6)年

1855(安政2)年

1854-59(安政年間)年

1871(明治4)年

1876(明治9)年

1983(昭和58)年

1934(昭和9)年

2002(平成14)年

 名塩の地名が「造内裏段銭記」に摂州有馬郡内塩荘とはじめてみえる

浄土真宗蓮如上人が名塩に入り、教行寺を開く(名塩の人家24戸)

この頃、名塩に紙業起こる

名塩紙の記述が俳諧書「毛吹草」にあらわれる

名塩鳥の子のことが「摂陽群談」に、大坂に販売されたこと藩札が漉かれたことがみえる 

大坂屋平八・鹿田屋善吉が紙座を設け名塩紙のすべてを買い取ることになる

紙座廃止 

貝原益軒著の「有馬湯山記」に名塩紙の記事がある

名塩紙漉仲間は、大坂の紙問屋と印鑑帳を取り交わし販売の統制をはかる

名塩村の庄屋・漉屋組頭10名が京都紙問屋の美濃屋・吉文字屋と雛紙に関する一手販売の契約を

結ぶ。このころ名塩紙業は繁栄し、経紙・鳥の子・色紙・襖紙・藩札・問屋銀札など盛んに漉く

(名塩千軒時代)

名塩紙の始祖、東山弥右衛門の彰徳碑、名塩村中山に建つ

このころから教行寺10世摂観は西本願寺の宗政をつかさどり、王事に努力し、また名塩紙を本山

御用紙に指定する

政府の藩札の処分令により原紙の注文がなくなる

兵庫県に郡村地券紙・沽券紙の用紙を納入する

名塩紙が兵庫県無形文化財に指定される

製紙軒数124軒 従業員570人

谷野武信、国指定重要無形文化財技術者となる